2022/02/05 19:41



日本に措ける一番最初の国会、議会が成立したのは1890年(明治23年)11月29日の事だった。


前年の1889年(明治22年)、「衆議院議員選挙法」が発布され、日本初の衆議院選挙は1890年7月1日に行われ、同年11月29日、帝国議会議事堂で開院式を迎えたのである。

だがこの帝国議会議事堂、実は1886年から建設に着手していたものの、第一回の帝国議会開会に間に合わず、日比谷に建設された仮の議事堂で第一回の帝国議会が開会されたのであり、ついでにこの仮議事堂は2ヵ月後の1891年1月、火事によって焼失してしまった。

この時の議員定数は皇族、華族から選出される「貴族院議員」が252名、選挙によって国民から選出される「衆議院議員」が300名だったが、全国会議員の平均年齢は42歳、この年齢が若いかそうでは無いかは微妙なところだが、当時の日本人男子の平均寿命が53歳前後で有る事を鑑みるなら、その年齢は決して若いとは言えないかも知れない。

ちなみにこの第一回の議会に初登院した衆議院議員の一人に岡山県選出の「犬養毅」、当時35歳、三重県選出の「尾崎行雄」、当時32歳などの姿が見えるが、この時の衆議院では現在とは違って、政党や所属会派別に固まった席順とはなっておらず、選出地域別に座席が割り振られていた。

そして当時衆議院議員に立候補できる「被選挙権」は直接国税を15円以上納付している男子に限られ、これはどのくらいの金額かと言うと、当時の大工の日当が65銭前後だから、現在で有れば46万円の固定資産税を納付していれば可能と言う事になるが、そもそも大工工賃が相対的に現在の職業別賃金比率よりも低いことから、現実には200万円の固定資産税を払っている男性しか「被選挙権」が無かったと考えた方が良いだろう。

この為1882年にルソーの「社会契約論」を漢文訳し、当時の自由民権運動の中心的人物として有名な、大阪府選出「中江兆民」(なかえ・ちょうみん)などは、「被選挙権」の納税額規定をクリアできず、仕方なく地主である知人に頼み、その財産の所有者名義人となって、納税規定をかろうじてクリアし、衆議院議員選挙に出馬していた。

それゆえ中江兆民の質素倹約ぶりはつとに有名で、当時の衆議院議員は弁当代「35銭」を支払わなければならなかった事から、彼はこれを節約し、いつも国会内での食事は持参した握り飯を食べていた。

またこうして「被選挙権」に厳しい制限が有った初期の衆議院議員選挙法は、選挙権そのものにも厳しい制限が有り、こちらも直接国税納付額15円以上を納税する25歳以上の男子と定められていた為、有権者となった者は約45万人、当時の日本の人口は約4090万人だから、全人口の内選挙権を有する者は1・1%程だったと言う事になろうか・・・。
その大部分は地主で有ったようだ。

従ってこの場合首都圏や都会程、全人口に対する有権者も被選挙権者も少なくなる傾向に有り、1票の重みには膨大な格差が生じる事になった。

京都1区選出の「浜岡光哲」と言う衆議院議員は、たった27票で衆議院議員に当選し、最高得票の「松田正久」(佐賀1区選出)が4548票だから、「松田正久」は「浜岡光哲」の168倍以上の得票で当選を勝ち得ている事になり、この時の投票率は凡そ94%だった。

それに第一回の衆議院議員選挙はとても窮屈な選挙で、投票所には警察官と地元有力者が立ち会い、投票に来た有権者は投票用紙に自分の氏名、住所を記載し、押印しなければならなかった事から、投票者が誰に投票したかが明確に判明する選挙で、ここで立ち会っている者が如何なる身分かと言えば、例えば前出の佐賀1区選出「松田正久」は男爵であり、この人物の立ち会い人と言うことだ・・・。

こうして開院した第一回帝国議会、その内衆議院は政府側に組する「吏党」と反政府的立場の「民党」に分かれていたが、「吏党」には「大成会」79名、「国民自由党」5名が在籍し、民党側には「立憲自由党」130名、「立憲改進党」41名が所属し、「無所属」は45名だった事から、圧倒的に反政府側の議員が多かった。

ゆえ、こうした時期の議会は軍備拡大、租税引き上げを唱える「吏党」対、軍備縮小、租税引き下げを主張する「民党」との対決姿勢が鮮明になっていたのであり、この攻防の主たる議論は「軍備」を巡る予算編成についてだったが、これが第5回議会(1893年)くらいになると「不平等条約改正」を巡る議論となって行ったのである。

35銭の弁当代を払って、それが惜しい者は握り飯を持参して臨んだ国会、そして議論は軍備拡張に対する議論、或いは不平等条約改正に関する議論だった訳だ・・・。

ペラペラと責任の無い議論をし、衆議院議員を生活手段としてやっているような、全くの自己保身、餓鬼のような現代の衆議院議員達・・・。

中江兆民と同じように、やはり財産が無く知人の財産名義人に加えてもらって、やっと衆議院議員になった「植木枝盛」(うえき・えもり)は、1888年、第一回の議会が開院される3年前の日記にこう記している。

「昨夜、予(自分)は国会々議に臨席す事を夢む・・・」

彼の政治に対する情熱、その熱い思いが伝わって来る一言である。
民主党、自民党、公明党、その他の野党も今一度握り飯を持参してでも議論を尽くそうとした、彼等第一回選出の衆議院議員達の精神に思いをはせ、そして深く恥じるが良い。

[本文は2012年8月9日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]