2022/04/03 10:30

「スモールワールド現象」の実験者、「6次の隔たり概念」の提唱者であるアメリカの心理学者「Stanley Milgram」(スタンレー・ミルグラム・1933年ー1984年)によれば、遠く離れた場所に居住する全く任意の、互いに面識のない2人が繋がる場合、その間に何人の人間を介せば2人が繋がるかと言う実験を行なった結果、2人から10人の仲介者が有れば全て繋がり、その80%程が5人前後の仲介者で繋がっていることが判明した。

つまりこの社会は意外に狭いのであり、例えばあなたが5、6人の知人を持っていれば、少なくともその国家内では全ての人と繋がる事ができると言う訳である。

この意味から一般的な概念で「社会人」と表現されるものの基準は、5人以上の知人や仲間を持っているか否かと言うことになるが、匿名性の高いネット社会ではこの原理より遥かに少ない数での連携が始まり、それは2人以上から可能になるが、実態は伴わない事になる。

そして人間と言う生物の本質は「感情」で有り、「合理的」または「合理性」の概念の本質は「幻想」で有る事から、基本的に政治や経済、社会と言ったものの原理は「人間関係」に有ると言っても過言ではない。

この点で言えば経済の本質の一つは、日本民話の「わらしべ長者」の原理の中に有って、即ち個人の財産、またはその財産を築くものは「人間関係の連鎖」と言う事ができ、その個人の集積が国家で有るなら、人間関係は個人に取っても財産であると同時に社会的な財産と言う事もできる。

この点でハーバード大学教授、政治学者の「Robert David Putnam」(ロバート・パットナム)が提唱した「social capital」(ソーシャル・キャピタル)理論は整合性を持つが、彼がアメリカとイタリアで採取したデータ解析によれば、他者との信頼関係が円滑で有る事、互恵的な範囲が広い事、対等で公正な市民参加の精神が蓄積されている社会ほど行政効率や信頼度が高い事が実証されはしたものの、考えてみれば少なくとも揉め事がない分、円滑に物事が動くのは当たり前と言えば当たり前の事である。

それゆえこうしたソーシャル・キャピタル理論を訳も分からず導入して行った日本などは、基本的にそれまで地域社会が持っていたソーシャル・キャピタル以上の「人間関係の良好さが持つ社会資本」を「ソーシャル・キャピタル」と言う資本主義的理想によって破壊して行った側面を持っているが、この原理は「ボランティア」と言ったものの底の浅い考え方でも同じことが言え、世界的に同じような失政傾向に有った1980年以降、この対応政策として国際社会風潮にもなった「シビルソサエティー」の考え方なども、その結果は市民、行政共々の「劣化」だった。

「civil society」(シビルソサエティー)の原理は「混乱の収拾」に有る。

即ち東欧に見られた革命の主導としての「労働運動」、或いはカトリック協会の動き、アメリカ都市部に措ける治安悪化に対応した、市民と言う、国家でもなければ市場でもない存在が公共性を構築する社会風潮は、1970年代まで理想とされた「福祉国家政策」と「市場万能主義」が招いた、大きな政府による財政赤字と貧富の格差を是正する特効薬のように扱われたが、今日の国際社会の現状はどうだろうか、基本的には市民の理想と経済は相反するものである事、政治は市民の欲望と国家の維持の調整に有ることを弁えていなかった国際社会は、理想と現実のギャップに更に信頼を失い、混乱と突き進んだのである。

ボランティアなどあらゆる市民活動、市民社会と言う考え方は「シビルソサエティー」の範囲と言うことができるが、基本的に劣化したものを更に始めから劣化状態に有る個人集積が参加しようと言う考え方は、唯ひたすら混乱に向かうだけである。

「volunteer」(ボランティア)の本来の意味は「volo」、つまりは「欲する」と言うラテン語の動詞であり、ここから派生した「voluntas」と言う名詞が語源となっていて、ピューリタン革命によって全土が混乱状態になった17世紀イギリスで、自分たちの町や村を自主防衛する「自警団への参加」がその原義である。

更にこれが18世紀になると、世界進出を始めた「大英帝国」が持つ植民地を守る為に展開された「志願兵」への志願精神を指すようになり、19世紀後半には「貧困問題と戦う為に自ら志願する者」と変遷して行ったが、その基本は戦いだった。

戦わざるを得ない状況で「必要」とされるものに対する自主参加だった訳である。

ゆえ「シビルソサエティー」や「ボランティア」と言うものは、混乱や非常事態に対応するものであり、初めからそれを社会財産と考える事はできないのであり、社会システムが正常に機能している「場」では必要がない事を理解しなかった事に、今日国際社会や日本社会の深い錯誤が有る。

「自主参加」「欲する」をキーワードに考えるなら、今日日本社会が進めているNPOなどの政策は「行政」や「官」が許認可し、それを推進している点、また「欲する」と言う目的、「戦う」或いは「守る」と言う観点から大きく外れるものであり、平時には「ボランティア」も「シビルソサエティー」も無用の長物以外の何ものでもない。

現在日本で「シビルソサエティー」や「ボランティア」が必要な地域は東北であり、しかも自主参加と言う意味では、地元の人がまず立ち上がらねばならず、これ以外にボランティアを名乗る者は「市民錯誤」によってその地域や、地域が持つ文化、経済を破壊する者としかならない。

市民は「知る事」であり、何も知らない市民が必要も無く組織維持の為に、或いは自分の感傷の為に活動している責任のないボランティアは国家の不利益であり、行政や国家もまた市民参加を謳い、自らの責任を分散し、本来の職務を「アウト・ソーシング」(行政権を外部化)することは「集中」を「分散」に向かわせる事であり、これは基本的に「破滅」や「崩壊」へと向かう道で有ることを認識する必要が有る。

「ボランティア」や「シビルソサエティー」は確かにある種の国民的財産では有る。

だがそれは非常時、国民が持つ最後の力であり、これを国家予算に計上するような欧米の考え方では、日本が持っている本当の国民的財産を失う事になる。


[本文は2012年8月15日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]