2022/05/06 19:13

例え他にどんなに素晴らしい知恵が有ろうと、更に合理的な方法を思い付くとしても、それが現在の時点で思い付かなければ、今それができないなら、その方法は初めから無いに等しい。
それゆえ如何に非合理的で苦しいもので有っても今思いつく最高の事を、自分が今できる限界のところを今やらなければ、そこで躊躇していては未来が苦痛になっていく。
そう私は思っている、いや信じているのかな・・・。

朝、目を醒ますと気温変化に付いて行けない妻が苦しそうに呼吸をしながら眠り、そんな彼女に何か一口でも食べさせようと、また娘にもそれなりの弁当を用意しようと台所に立ち、それが終わったら100kmも離れた大学病院に入院している父の所へ向かう生活、その影で秋の稲刈り作業が微妙に遅れてしまった私は、9月中頃を過ぎる辺りから稲穂の中に僅かずつ見えてくる緑色を気に留めながら、何の手立ても加える事ができなかった。

今年は大変な日照りで、当地は殆ど雨が降らなかった事から、春に除草剤で抑えられる以外の、9月になってから伸びてくる「稗」(ヒエ)や「タテ」と言う乾燥地に生える雑草が田圃に生えやすくなっていた。
従ってこうした場合は早めに稲を刈り取れば雑草被害は無くなるが、稲刈りが遅くなればなるほど雑草が繁殖し、稲刈が困難になって行く。

この事を知りながら一生懸命稲刈りを進めていた私は最後残った6枚の田圃まで来たとき、さすがに「もうだめかな・・・」と田圃の前で呆然となった。
もはや体力も尽き気力も失せ、畦に座り込んでしまった。

2反、1983・48平方メートルの田圃3枚がそれぞれ半分くらいまで「タテ」と言う膨大な葉っぱが付く雑草に占拠され、稲穂の姿が見えない状態になっていたのである。

少し離れたところでも私と同じように稲刈りが10月にずれ込んだところでは、場所によって稲刈りができなくなり、草刈機で刈り倒してしまったと言う話を聞いていた私は一瞬雑草の無い部分だけ稲刈りをし、雑草の有るところは草と一緒に処分してしまおうかと考えていた。

コンバイン「稲刈り機械」で刈り取ろうとすれば必ず刈り取り部分が壊れるだろうし、それで上手く行ったとしても次に乾燥が終わって籾から玄米にする段階で、米に草の屑が混じりやすくなってしまう。

「家に病人がいて大変でした」「一生懸命頑張ったのですが間に合いませんでした」などと言う言い訳は、優しい上司ならいざ知れず自然相手には全く通用せず、弱い者、怠惰な者は徹底的に叩かれるのがルールであり、これに妥協の余地は無い。

これが私と天との契約と言うものだ。

缶コーラを飲んで煙草に火を付け、うつむいた私は田圃を眺め、それから天を仰ぐ。
「くそー、俺は絶対負けないからな・・・」
「何かを言い訳にして、できませんでしたとは絶対言わないからな・・・」

タバコの火を消した私は田圃に入って稲をかき分け、雑草を一本抜いて見た。
9月になってから生える雑草など所詮は根は浅い、「タテ」は比較的簡単にごっそり抜けてきた。
それで私は田圃の端から一本一本雑草を抜き始めたのだが、これはどう見ても人から見ると狂気の沙汰だったようで、1983平方メートルの半分、900平方メートル一杯に生えた雑草を抜き取る姿を見た村の者たちは「あんたそんな事をしておったら、町中の者にしんきょ(狂人)やと言われるぞ」と呆れていた。

だがそうして雑草を抜き始めて2日目、隣の家の一人暮らしの高齢者女性が「あんたもやっぱり○○の家の者やな、強情なものや・・・」と言って一緒に雑草を抜くのを手伝ってくれた。
そして翌日にはまた村の別の高齢者が、その翌々日には更に人が増えて5人もの村人が私と一緒に雑草を抜いてくれ、おそらく明日には3枚目の田圃の雑草も一本残らず抜いてしまうことになるだろう。

私は緑に占領された田圃を元の黄金の稲穂がたなびく田圃に戻したかった。
それが私の天に対する礼儀だと思った。

今回のことで私はもしかしたらこの町で鬼だ、狂気の沙汰だと言われたかも知れない。
だがこうした私の有り様を生んだのは誰か、それは我が父で有り母であり、祖父母であり、この村と千年に渡って連綿と続いてきた農の歴史ではないか・・・。

合理的に考えれば雑草が繁茂した部分など草刈機で刈り倒してしまえば良いだろう。
しかしそれをさせないものは何か、私に雑草を抜けと言う者は誰あろう、この村の住人と、ここで苦しい時も米を作って来た多くの人々なのではないか・・・。

私は田んぼで雑草を抜きながら、我が父や母は我が父や母だけに有らず、私はこの村人たちの子供でも有った事を知った気がする。
幼い頃、若い頃はこんな田舎臭い教養も何もない下賎な者などと、どこかで両親や村人を見下したように思っていた。

だが、我が形を為すものはこの多くの父や母たちであり、この土地で生きた幾多の人々そのもので有ったような気がする。

農の契約、天との約束はおそらく個人の約束ではないのかも知れない。
土地と天との約束で有り、その狭間に人がいるのかも知れない・・・。

今年は稲刈りが終わったら村人を招いて祝宴を開こうかと思う。
この土地の末裔は皆で力を合わせ、今年も天との約束を守ることが出来た。
私は稲刈が終わったら神前に新米を供えひれ伏しながら、きっと村人にもひれ伏しているに違いない・・・。


[本文は2012年10月11日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]