2022/05/14 20:25

経済や消費と言うものは、それまで存在したものを新しく出て来たものが駆逐し、いつしか元の形を根底から失わせて行く流れを持っていて、その流れは「形有るもの」から「形無きもの」へ、およそ経済だけにとどまらず、あらゆる事象が同じ方向へと動いていくが、ここで「形無きもの」が行き着き、そこに存在していた限界の価値にまで分解、分裂が進行すると人々は「方法」を失い、ここにあらゆる価値観の喪失と、混乱と言う崩壊を迎える。

日本経済を例に取るなら、例えば太平洋戦争以前の経済は実質統制経済だった。
主食である米は海外生産品が輸入されることは無く自律経済の中に有り、これは木材なども同じことで、この時点まで日本経済は第一次産業が自動的に保護されている状態に有った。

しかし太平洋戦争終戦後の経済、取り分けアメリカが行なった解放政策は実質それまでの経済的価値観を駆逐し、そこに新しいアメリカ型の経済を導入することで、アメリカ経済が日本経済を飲み込んでしまった側面を持つ。

米に代わってパンが普及し、ここにパンは経済的合理性をして米と言う価値観を駆逐し始め、やがては米そのものも合理性と言うアメリカが持つ価値観によって生産的思想の変遷を余儀なくされた。

その結果合理性が失われると、如何に大義を持っていてもそこに意味を見出すことができなくなってしまった日本の生産業は根底から排除され、ここに生産と言うものが持っていたそれまでの価値観が失われ、最終的には生産の基本である生産思想を失う事になったのである。

身近なところで言うなら寿司がそうだが、私がまだ幼い頃、寿司は大変高級な食べ物でめったに口にする事ができなかった。
しかし戦後日本の経済的発展はこれを庶民化するところまで普及せしめ、ついには機械生産するところまで行き着いた。

その結果寿司は従来日本人が持っていた「高級感」を失い、弁当ぐらいにまで価値観を下げてしまったが、この下がった価値観を「付加価値」で乗り切ろうとする動きが発生する。
ここに生産品目では無く、考え方や思想と言う形無きものが加わってくるのであり、大間だろうが銚子だろうが同じマグロが、捕獲された場所によって違うかのような表現が為され、それまで全く価値観では無かったところに、産地と言う特別な価値観を付加させる方向に動いて行った。

だがしかしマグロはマグロでしかない現実はどこかでは免れず、やがていつかはこうした産地による付加価値も価値観を失ってくるところに、人間は次の方向を見出すことができなくなり、ここで本来は経済と同じ流れを持ちながら根底には矛盾したものである「芸術性」に依存して行こう、更にはエコなどと言う新興宗教に近い危険思想にすがろうとしていくのであるが、これは世界経済も全く同じ流れの中に有り、その結果が今日の世界経済の混乱である。

常に大きな消費を求めようとする経済は次から次へと新商品、より便利で合理的なものを社会に排出するが、これは事実上それまで人間が持っていた価値観を塗り替えて行く動きであり、言わば我々は自身すら気づかない内にそれまでの価値観を失い、より本質から遠い「形無きもの」の侵食を受け、やがては膨張の極まで膨らんだ自我と現実の狭間で開き直るしか道を無くするが、こうした部分のマクロが今の世界経済である。

古来より形の有るものより「形無きもの」の方が膨大なコストを要した。
それゆえエンターティーメントは資本の有る物しか手が出せない世界だったが、パソコンやそのソフトの普及は、ある種現実の限界をを超えて膨らんだ「形無きもの」の世界を生み、そしてついには小学生でもプロのエンターティーメントを超える作品を制作できるまでに普及した。

ここに第一次産業から「形無きもの」の極までを鑑みるなら、既に世界経済は消費を求め「形有るもの」の限界を壊して「形無きもの」にまで商品を拡大し、現在に至ってはこの一番コストがかかる「形無きもの」の極ですら一般普及と言う価値崩壊に至ったのであり、世界は次の価値を想像する時間的余裕を失い、その現実とのタイムラグの中でさまよい、これまで存在していたあらゆる価値観を失ってしまった。

これが現在の世界経済の混乱の全てである。

そしてこの先起こるものは更なる混乱の極み、崩壊と言うものがやってくる事になるが、私はかねてから「崩壊」こそが最も合理的で理想的な解決方法だと考えている。
人間に取っては、或いは秩序を求める者に取っては最も辛い事だが、自身を含めて弱き者、愚かな者の屍が累々と続く荒涼とした世界が広がったとしても、私はそれを後ろ手を組み、少し微笑んで眺めるような気がする。

絶望は希望の一つの形だ。
最も深い絶望の中にこそ最も大きな希望が存在する。
だが人間は絶望を恐れ、崩壊や滅亡を恐れる余り、ここから逃げようとしてしまうが、その先に待っているものは更なる絶望である。
それゆえ常に絶望から逃れようとする者は、やがて生きると言う生物の最低限の力すら失う。

元々生物は生存の限界付近を生きる姿が正しい。
つまり生物に取って混乱、崩壊、絶望こそが普遍的な環境なのであり、これこそがゆりかごのようなものなのである。
20世紀の世界はこの事を人々から忘れさせる事が出来た世界だったが、21世紀はその代償と精算が求められている。

混乱や崩壊を恐れば恐れるほど、先の絶望は深くなる。
例え命の代償を求められても笑え、そして胸を張って闘え。
混乱や崩壊など大した事では無い・・・。


[本文は2012年11月1日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]