2022/05/14 21:03

他者の反対を制して自身の意思に服従させる事を「権力」と言うが、こうした力は家庭から始まり、国家、国際社会に至るまでその構造は同じであり、この中で特定の地域社会に措ける住民の全てが従うべきものとして成立したものを政治権力と呼ぶ。

政治権力は「定められた暴力」「威嚇」「被権力者の積極的参加」をその力の行使の拠とするが、最終的に政治権力を担保するものは「法によって定められた罰則」、「つまり「定められた暴力」である。

それゆえ政治権力行使に措ける最も非効率的な運用は「定められた暴力」による権力行使で有り、「威嚇」はその次に非効率的運用となり、最も効率的な権力行使は「被権力者の積極的参加」による権力行使となるが、一般的に国家権力、地方行政権力が法に定められた罰則に従って、警察や自衛隊による強制力、逮捕拘束を持って為される以上、日本のみならず国際社会の大半が政治権力の現担保を「威嚇」に求めている事は否定できない。

一方、こうして政治権力を行使される側、被権力者である大衆は「法」を根拠にして

政治権力の行使を容認する形となるが、自身の思想や行動が制限されるに当たってそれをどう納得するか、或いは政治権力がどう納得させるかと言う課題に対し、「法」が大衆の意思によって定められた形が理想となる。

これが主権在民の考え方だが、実際に権力を行使する側とそれが行使される側では初めから力の均衡は存在しておらず、従って政治権力は「法」を傀儡として常に一方的な行使となるのであり、政治が対立を調整する能力で有ることを考えるなら、本来民衆の中にある経済、文化などに対しても中立な立場で無ければならないが、調整能力が欠如した政治、政治家がこれを行使すると、政治対大衆と言う形にしかならず、戦後日本の政治はまさにこうした道を歩き続けた歴史でも有った。

政治権力への服従は道徳的に正しいと言う観念であり、政治権力はこうした「正当性」と言う観念を得る事によって権威となり、支配は権利として認められ、そこから服従は義務となる。

ドイツの経済学、社会学者「Karl Emil Maximilian Weber(マクシミリアン・ウェーバー)はこのような「正当性」の形を「伝統的」「カリスマ的」「合法性」の3種に分類したが、これらは前近代社会、変動期社会、近代社会と言う流れを持ちながら、正当性の包括要件とも言うべきものである。

従って「マクシミリアン・ウェーバー」が言うように正当性の根拠は時代の流れによって変化し、近代社会では確かに「合法性」が正当性の根拠のように見えるかも知れないが、その実こうした「合法性」の中には「伝統的要素」「カリスマ的要素」が包括されている事を忘れてはならず、現代に至っても「伝統的要素」や「カリスマ的要素」が存在する限り、正当性に形は無く、民衆はその政治家の正当性を政治家の言葉でしか予測できず、その行動でしか判断できない。

そして政治家の言葉を担保するものは「信頼」しか無く、仮にこうした「信頼」が守られない状況が発生しても、民衆に割り当てられている拡散され砂粒のようになってしまった「主権」では権力の行使ができない。

つまり政治家は国民との公約や約束を守らなくても法的に罰せられず、その責任はもっぱら政治家個人の任意によって、その政治家が持つ価値観や道義的解釈に頼るしか道が無いのである。

ゆえ政治家はいつの時代もどんな相手に対しても、自身が発した言葉は例え文書化されて保存されていなくても、厳守する事で信頼と言う正当性を得るのであり、これは一般大衆も同じことである。

だがその国家が経済的に崩壊し、ここに全ての価値観を失うと、その価値観を「法」に求める社会が出現し、「法」に過度に依存した社会が発生する。

この過程で民衆が選択する政治家、或いは権威の質も過度に「法」に基づいた「権利」に偏重したものとなっていく事から、民衆は言葉ではどんな美しい事でも言えるが、実際は何もできない政治家を選択してしまう、つまりは騙されやすくなるのである。

こうして選択された政治家は「法」さへ破らねば道義的責任、信頼などと言ったものを理解する努力すらしない場合が多く、これに震災などの災害が加わって非常事態が発生すると、あらゆるモラル、道徳観を無視しても構わないと言う考え方が生じてくる。

これが民主党政権であり、その末期的な状況が「野田佳彦・現内閣」である。

歴代民主党政権担当者が犯した罪は限りなく深い。
マニフェストを守らなかった、全てが嘘で何もできなかった、などと言う生易しいものでは無い。
国民に主権が存在していない事を示し、選挙制度の根幹、その意義を水泡に帰してしまったのである。

マニフェストに記載した事は何一つ実現できず、反対に当初絶対行わないとしていた消費税増税を成立させ、国民が議論する余地もない間にあらゆる新税を創設、外交政策に失敗し国家的危機を迎え、これほど国民に背信、背任しながら、それでも「法」に違反してなければ閣僚はおろか、国会議員も総理すら辞職しなくても良い、つまり政権公約など破っても政治家は責任を取ら無くても良い事を世に知らしめたので有る。

この事態は如何なる意味を持っているかと言うと、何度国会を解散しようが、どの政党がどんな選挙公約を行おうが、国民が信頼できない状況を生じせしめた。

つまり国民の選挙権を「無意味」にしてしまったのであり、ここに国家の主権も国民の主権もその存在が否定されたのである。

選挙は民主主義の一つの手続きだ。

従って選挙が有るから民主主義が保持されるのでは無く、民主主義実現のために選挙が有るのであって、ここに民主主義を担保する「信頼」が存在しなくても政党や政治家が存在できるとしたら、我々民衆は選挙そのものの意義を失う。

年内解散も囁かれる永田町だが、既に解散の意義すら無意味化した現在、我々は国会が解散されたとしても、次に一体どの政党の誰の言葉を信じたら良いのだろうか・・・。

[本文は2012年11月11日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]