2022/05/14 21:13

星はまるで金権政治の権化のような手法、それに強引だったが、そうして稼いだはずの金はどうやら公的なものに使われていたようで、彼が刺殺されて残っていたものは1万円の借金だった。
また書生や他の女中達にも気を配る、内に優しい人であったようだ。

女性関係は潔癖で、この点は三木としては星を手本とできなかったが、後に「憲政会」総裁「加藤高明」、「濱口雄幸」等をして「一目御置かねばならない人物」と言わしめた三木の軍閥排除、議会政党政治主導主義は、実はこうした星亨の書生時代に基本が有ると見るべきである。

最も三木が加藤や濱口を感嘆せしめたシベリア出兵視察報告書には、当時の日本のシベリア出兵を内政干渉と糾弾していた事から、外務経験が有った加藤からは「国益と議会運営を天秤にかけてはならない」と言われるが、この事も三木のその後に大きな影響を与えたのもまた事実だ。

ちなみにこれは有名な話なのでついでに紹介しておくが、三木には5人の妾がいて、第25回衆議院選挙のおり、立会演説会で対立候補の「福家俊一」候補から「この男女同権が謳われる今日、妾の4人もこしらえている者が衆議院議員に立候補するのは時代や品位を考えても如何なものか・・・」とやられる。

だがこれに対して三木は「妾は4人では無く5人だ、数も読めん者がでかいことを言うものでは無い」と切り返し、その返す刀でこう言う・・・。
「妾と言ってももう女を終わった者ばかりで、それでもこの三木は女を捨てるが如く不人情はできないゆえ、今もみんな養っております」
「また、かくなる国家の非常時に当たり、女房と妾の5人程も仲良く暮らさせる程の者で無ければ、国政を預かるに足りるとは言えないのであります」、とやるのである。

立会演説会を聞いていた聴衆からは大きな笑いと共に、「いいぞ三木」「男だぞ三木」のかけ声がこだましていた。

そして三木武吉を政界に引き上げたのは「加藤高明」と「濱口雄幸」で有り、その後憲政会幹事長に就任した三木は1923年5月の選挙で憲政会を第一党にまで躍進させる功績を上げ、加藤高明は内閣総理大臣、濱口雄幸が大蔵大臣となり、自身も大蔵参与官となる。
ここに政治家としての一つの絶頂期を迎えるが、如何せんやはり星亨の影響か1928年、京成電車疑獄で連座に関して有罪となり一時政界を引退する。

しかし1942年の衆議院選挙、この選挙は「翼賛選挙」の時期で有ったが、これはつまり太平洋戦争と言う非常時に措いて、戦争遂行、軍部に協賛する者は大政翼賛会、或いは大政翼賛会奉仕会を通じてあらゆる金銭的、人的援助が受けられた制度期の選挙で有り、この為戦争反対とまで行かなくても軍部と議会を切り離そうと考える者は翼賛会の推薦を受けられず、非常に不利な立場で選挙を闘う事を余儀なくされた時期の選挙だったが、ここで三木は翼賛会の推薦を受けずに衆議院議員に当選する。

また同じように翼賛推薦を受けずに鳩山一郎も衆議院議員に当選、ここに「政友会」幹部の鳩山と「民政党」幹部の三木は、互いに政党的には敵対する立場に有りながら、自由主義政党の同志として軍部の政治支配に抵抗し、いつか平和な時代が訪れたら鳩山が内閣総理大臣、三木が衆議院議長となる事を誓うのである。

太平洋戦争は日本の敗戦によって終わった。
1946年(昭和21年)4月に行われた衆議院選挙、三木は鳩山一郎と創設した「日本自由党」の幹部として活躍し、選挙後日本自由党は第一党となった。

もはや鳩山首相、三木衆議院議長は目前だったが、ここで鳩山が公職追放処分を受け、総理の椅子には遠かった吉田茂が総裁に就任し、第一次吉田内閣が組閣され、その組閣の2日後には三木も公職追放処分を受ける。

だがこの吉田内閣組閣時、吉田茂は日本自由党執行部に何の相談も無く人事を執行し、この事から自由党内部には強い吉田批判が起こってくる。

吉田茂は基本的には政党を信じることができなかった。
日本が戦争に傾いて行く中で、個人の政治家はともかく政党と名が付けば、軍部に恭順、または協賛して行った戦前日本の政党に対する強い不信感が戦後の政党に対しても続いていたのである。
それゆえ吉田は思うことができなくなる事を恐れ、党の調整と言うものを嫌った。

戦争に反対すると言う立場であれば、三木と吉田に隔たりは無かったかも知れない。
東條英樹内閣が提出した「企業整備法」を翼賛政治会で決議するおり、軍部支配に抵抗していた「中野正剛」(なかの・せいごう)が翼賛会傘下の議員たちを茶坊主と罵ったとき、これに大きな野次が飛んだが、「黙れ茶坊主達!」と野次を制したのは三木だった。

吉田と三木の決定的な違いは吉田が政治家であり、三木が政党人だったと言う事である。

だからこの第一次吉田内閣組閣時、吉田に対する自由党内の激しい不満は、吉田を総裁の座から引きずり下ろすか、そうで無ければ自由党は分裂するかの危機に達するが、ここで戦後力を付けてきた社会党系勢力を恐れた三木は、政党人として、或いは国益と政争を天秤にかけてはならないと言う信念から党内調整に奔走し、本来は宿敵とも言える吉田茂内閣を成立させるのである。

そして公職追放令が解除された1951年6月24日、三木は鳩山や河野等と共に自由党に復帰し、早速吉田内閣倒閣に向けて動き出すが、第一次吉田内閣成立時に条件とされた、「公職追放令が解除され鳩山が復帰したら総理を譲る」と言う約束は破られ、自由党は吉田学校に代表される吉田党へと変わっていた。

                           「自由民主党」・3に続く


[本文は2012年11月19日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]