2022/05/14 21:15



三木等はこうした中で新党結成を目指すが、ここで鳩山が脳溢血で倒れた事から、三木は自由党内部に留まって吉田内閣打倒を画策、これに対して吉田は「抜き打ち解散」を行い三木等に揺さぶりをかけるが、この際反吉田色の濃かった石橋湛山、河野一郎を自由党から除名する。

しかし超本人の三木武吉を除名しなかったのは、吉田の中にも少しは「義」と言う思いが有ったと言う事だろう。

やがて紆余曲折の中、1953年2月28日、ついにその日はやってきた。
西村栄一の質問に対して「バカヤロー」と発言した吉田茂は、社会党右派の「浅沼稲次郎」と三木の画策により、首相の懲罰動議を提出され、これが背後から更に根回しした三木によって本会議を通過してしまう。

その上で三木は余り積極的では無かった野党の尻を叩き、内閣不信任案を提出させ、この回避を条件に吉田の辞職を迫るが、吉田はこれを拒否、内閣は解散された。
世に言う「バカヤロー解散」だが、この時吉田茂が言ったバカヤローの言葉は、本当は小さな声だった。

しかし偶然にも国会のマイクがこの声を拾ってしまい、それで西村栄一が騒ぎ出した事から話が大事になっていったが、こうして解散総選挙となるも選挙後も自由党の第一党の立場は変わらず、吉田内閣解散時に結成された自由党反主流派(鳩山派)は、総選挙後にもたれた鳩山・吉田の話し合いによって、その大半が自由党に復帰し、「中村梅吉」「山村新治郎」「池田正之輔」等、俗に言う「8人の侍」と呼ばれた8名の代議士が復党を拒み、「日本自由党」を結成する。

だがこうした状況も長くは続かず、1954年には社会主義勢力の台頭から保守統一の機運が盛り上がり、この機に乗じて三木は反吉田勢力を結集し「民主党」を創設、吉田内閣はついに総辞職に追い込まれ、ここに第一次「鳩山内閣」が誕生する。

一方原水爆反対、貧しさからの脱却、反戦争の国民的機運はどうしても共産主義、社会主義思想を増長する事から、当時の日本では社会主義が勢力を付け、しかもそれが結集されつつ有った。

またこの時期になると三木は自身が癌におかされ、余命3年以内と医師から告げられていた為、社会主義の台頭に対抗するには自由党と民主党と言う、保守勢力の分裂状態を何とか改善しなければと言う思いに駆られたに違いない。

1955年4月13日、三木は自由党と民主党、両保守勢力の連合を唱え、自由党に対して工作を始めるが難航し、これを見ていた鳩山一郎は涙を浮かべて「保守合同にこの鳩山が障害になるなら、私はいつでも総辞職する」と口走り、これに慌てた自由党と、民主党内の保守合同反対派は一挙に合同に向けて傾いて行ったのである。

この保守合同は不安定なものだった。
総論賛成各論反対で、保守合同は実現したものの統一された後の総裁すら決められず、従って三木等5人の総裁代理執行者が統一後選挙を実施し、そこで総裁を決める事になった。
そしてここに自由党と民主党の合同が実現し、「自由民主党」が結成され、その初代党首には「鳩山一郎」が就任した。

三木はこの翌年1956年7月4日、東京目黒の自宅で永眠した。享年71歳。

稀代の政党人はこうしてその一生を終えたが、かつて「いつか戦争が終わったら君は総理だ」「じゃその時は三木君が衆議院議長だな」、そう言って誓い合った鳩山と三木の2人、確かに鳩山の総理は実現したものの、結果として三木の衆議院議長は実現しなかった。

政治家は良いものだ、その理想を追えばそれに人が付いてくる。
言わば「神輿」のようなものだが、政党人はそうは行かない。
代議士と言うある種利益の突起達が持つ蠢く泥のような中を、或いは理不尽と言っても良いか、そんな中を歩いて行かねばならない。

三木が最後に思った事は何だったのだろうか・・・。

書生時代の「星亨」の有り様、それを見ていた自分だったのだろうか、それとも「例え政敵で有っても国益が害されるを使ってこれを非難、攻撃してはならない」、そう語る加藤高明の横顔だっただろうか・・・。

政党政治が弊害ばかりとなってしまった日本の今日、政治とは何か、政党の役割と、何が政治なのかを今一度考えて頂く機会になればと思い、駆け足で「三木武吉」を追って見た。

本文作成には「小野信二」氏、「門脇禎二」氏両氏執筆の「新日本史」、「戸川猪佐武」氏の執筆資料を参考にさせて頂いた。
末尾では有るが、著者に心より敬意を表する。

[本文は2012年11月19日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]