2022/05/19 19:12

例えば中南米諸国内のキリスト教、主にカソリックだが、この教義遵守は大変厳しいものとなっている。

まず「愛」を神の前に誓うと言う儀式、結婚に付いて言えば、神の前に永遠の愛を誓う訳だから「離婚」が許されなくなる。
更に生まれてくる子供の定義も基本的にそれは「神のご意思」によって生まれてくる事になる為、妊娠したらそれが例えレイプされたもので有ったとしても「中絶」が許されないと言う考え方が出てくる。

それゆえここうした教義が現実の適用ではどうなって行くかと言えば、結婚式を挙げない同棲、お試し結婚期間の発生に繋がり、ここで若い男女は神の前で永遠の愛さへ誓わねば全てが許される、何人もと同棲生活を始め、そこで性の概念は乱れきったものとなるので有り、レイプされた子供の中絶が許されない状況は、ある種のレイプ容認、婦女子の男性所有概念の薄い容認になっていく訳である。

このように大きな概念の遵守を厳しくすると、その大きな概念を超えねば全てが許される、或いはそこで派生したものが蔓延する事になり、こうした状態は大きな概念を実質上無意味にしている為、大きな概念は既に失われている。

また権威や権力と言ったものも、それが集中した状態は大きな力を持つが、少しずつ民主化が進むと、本質的に民主化の進行は権力の分散で有り、ここでも民主主義が広く民衆に適用されるようになると、その民主主義を担保するに足る「力」が失われ、結局そこでは無責任な民主主義、意味を持たない民主主義が発生してくる。

つまりあらゆる物理的概念も同じ傾向に有るが、「分散」とは「崩壊」の事なのであり、この観点から現在日本の政治を鑑みるなら、2012年11月20日現在の段階で、既に大小15の政党が名乗りを挙げている現実は政党の分散状態と言え、ここでは本質的に政党と言うものの概念が失われている。

「政党助成金制度」は或る意味「補助金」の一種であり、「補助金」と言う形の援助がどう言った結果をもたらすかは1980年代の国際支援を見ても、あらゆる企業や第一次産業従事者経営助成制度を見ても、その国家民衆、企業や庶民生活を最終的に破壊する効果しかなかった事は明白である。

にも拘らず政党を育成すると言う妙な考え方の元、国民の血税がこうした制度に使われ続けた結果、冒頭の中南米の結婚概念と同じように、結婚さへしなければどれだけの女と寝ようが、何人の男と関係しようが関係ない状態と同じものになってしまっている。

つまり政党が助成金を得るだけの容器になってしまったのであり、本来なら政策や主張が有って、国民生活向上の為に如何なる努力をするのか、そしてその政党が民衆から信頼を得ることが政党としての有り様だが、先の政権だった民主党を見るまでもなく、簡単に主義主張がひっくり返り、政権公約は簡単に蹂躙される。

あまつさへ、選挙に勝てないと思いきや何の躊躇もなくに所属政党を変え、または新党を立ち上げると言う具合である。
一体政党を何だと考えているのか。

第三極と言われる民主党、自民党以外の政党でも石原東京都知事と橋下徹大阪市長の連携で急遽作られた一夜城、某維新と言う政党では代表格の橋下市長が公然と「組織を作りたい」と発言している。
つまり国民生活の向上や経済、外交などでは無く、団体を創りたいだけだと発言しているのであり、これなどは確実に政党助成金を得るだけ、選挙に勝つだけが目的と言う事だ。

先の民主党政権、民主党と全く考え方は同じな訳で、国民はこれから喧しい選挙運動演説を聞かなければならないが、その中で「必ず勝利して、皆さんの付託に答えたいと思います」と言われたとしても、その人間が信じられらなかったら、勝って貰う必要は初めから無いのであり、こうした個人や新人の信用にある程度の担保を与えるのが政党と言うものだ。

然るにそうした政党、或いは政党を志す者が政策をコロコロ変え、主張は大同団結でひっくり返り、聞いたこともない政党が乱立し、その中で候補者が離合参集していたら、どうして国民が政党を信じる事が出来ようか。
今や政党が本来担保すべき候補者個人の信用の上積みは失われ、その個人が持つ小さな信頼さへも政党と言うものによって失墜する事態になっている。
簡単に言えば政党が候補者個人の信用すらも妨害をしているのである。

そしてそうした政党に対して「政党助成金」が支給されている訳で有り、国民は政党の本来の意味が壊され、衆議院選挙と言う大切な権利行使時に誰に一票を投じて良いか分からない、または投票そのものに失望する為に、血税を使われている事になっているのである。

少なくとも民主党政権は鳩山、菅、野田政権によって間違いなく政党の要件を蔑ろにし、国家の威信を大きく傷つけた。

そして自民党、公明党は民主党の影に隠れて消費税増税を成立させた。
橋下維新の会代表は組織を作るだけが目的で政策が無く、その他の政党も掲げる政策を実行すると信じるに足る「担保」が無い。

加えて腐ったリンゴ箱の中から、僅かでもマシなリンゴを探そうとするマスコミは、リンゴにたかっているハエを見間違え、少しマシなリンゴだと報道するに至っている。
15の政党は政党の分散、つまり政党の崩壊であり、あらゆる情報が分散され個人化した現在、マスコミも崩壊している。
そして民主主義の極みにある民衆には、その民主主義が無意味化している。

腐ったリンゴはリンゴにしてリンゴに有らず。
政治が国民の邪魔にしかなっていない今日、選挙権と言う権利はもはや権利ではなく、義務でしかなくなった。
そして日本と言う国が本当に求めているものは政治に対しての何かだろうか・・・。
本当は国民、民衆に対して何か大きなものが求められているように見えるのだが・・・・。


[本文は2012年11月21日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]