2022/06/27 19:16



幸福の「幸」と言う文字の意味、その起源は洋の東西を問わず同じニュアンスにある。


西洋思想が「平和」を戦争が無い状態と考えた経緯と同じように、古代中国でも何か悪いものの隙間、その僅かに解放されている状態を指しているので有って、それは自身が求めてどうこうなるような生易しいものでは無かった。

「幸」の象形文字は上下から厚い板でガチンと手首を挟む、所謂「手カセ」の事である。
「幸」の発音「コウ」は「刑」の発音「ケイ」と同系の流れにあり、元々は刑罰を受ける時に拘束具として使われた「手カセ」に起源を持っている。

古代中国の民衆が思い描く「幸せ」とは随分切ないものだった。
僅かな事で囚えられ罰せられる、徴兵にかり出される、それだけでは無い、自然の力は大きく一瞬にして洪水で田畑の作物が失われるかと思えば、次の年は干ばつで飢えがやってくると言う有様で、常に幸せとは反対の状態が多かった。

それゆえいつも恐れと不幸の連続の中に有って、僅かにこうしたものから逃れられた時間を「幸せ」としたのである。

「棄」と言う文字が有るが、この字がそうした状態を良く現している。
「棄」「キ」と言う文字は「子」と言う文字が逆さになった状態と、「チリトリ」の文字、それに「左右の両手」を現す文字の組み合わせだが、子供が生まれるとき、赤ちゃんは母親の体内より頭から出て来るのが通常であり、従って赤子を指す場合は「子」を逆さまにした状態で使う。

この事から「赤子」と「チリトリ」、それに「左右の両手」が組み合わされた「棄」と言う文字は、冷害や干ばつで作物が収穫でき無かった年、「口べらし」として、生まれて来た子供が直後に「チリトリ」や現在で言うところのスコップのようなものに乗せられ、親の両手によってどこかに捨てられる、その余りにも苦しい、凄惨な生活の状態を現す文字なのである。

現代社会は「棄権」や「放棄」など、「棄」をあたかも軽く能動的意味で使っているが、その本来の意味は逃れられない絶対的なものの中に存在している受動的状態で有り、この意味に措いては「幸」もまた、それが人為的なもので有っても絶対逃れられないとしたら、やはり僅かに訪れる受動的状態に対するものである。

従って「幸せ」とは何か良い事がある事を指しているのではなく、悪い状態が無い事を指していて、しかもそれは希にしかない時で有ると言う事で、「棄」はまたどこかで槍の先のような鋭さと、禍々しい感じがするのは、このように凄惨な形容が文字の起源になっているからである。

そして「幸」の文字の隣りに「膝まづいた人」を並べると「執」と言う文字になるが、これは人間を捕まえ、その両手に「手カセ」をはめた状態を現していて、我々が使う「固執」や「執着」と言った言葉は、何となく自分が何かそうした状態に陥っている事のように考えるかも知れないが、元の意味は相手を捕らえて身動きできない状態にする事を言い、この「執」に「力」が加わると「勢」と言う事になり、つまりこの文字は民衆を有無を言わさず支配する、権力者の有り様に起源を持っている訳である。

ちなみに同じ「執」を含む文字で「芸」(藝)と言う文字が有るが、これは「木」と「土」に「人が両手を差し出した様子」を表していて、土の上に木や植物を植えて人間がそれを世話している状態を現している。

ゆえ、元々は「藝」の文字から「云」を抜いた文字が正確な文字と言え、後年「云」(ウン)と言う発音音符を添えた「芸」と言う文字が当てられたが、、「芸」は本来「ウン」と言う発音であるべきかも知れず、「藝」の意味するところは、植物や樹木の枝を切り、これを美しく管理する「園藝」の事を指す。

つまり「園藝」の「園」にどちらかと言うと意味が依存した文字であり、自然の植物に人間が手を加え、美しい形を作る方法を「藝術」と言い、今日我々が使う「芸術」と言う言葉は「園芸作業」からの派生文字なのである。

そして末尾では有るが「幸」と言う文字がでてきた事から、「愛」に付いても少し書いて置こうか・・・。
「愛」の下部、「久」と言う文字は人間の足の裏を現す文字で、しかもこの場合は足を一歩後ろに引きずった状態、或いは躊躇した状態を指している。

同じ「久」を下に持つ「憂」(うれい〕と比較すると随分面白いが、「愛」も「憂」も同じ足の形を現しているので有って、しかもそれは「足を引きずる」または「足が進まぬ」状態と言え、「愛」と「憂」が同じものだとは言わないが、その半分は同じものとし、しかもその事によって現れる対外的状態はよく似ていると考えた訳である。

実に人の世の、人間の心の機微が良く現されている文字ではないか・・・。

本質的に4000年前も2000年の以前も、そして今も人間の営みは変わらず、社会や政治、経済もその問題の本質は何も変わらない。
だから色んな事で言語や文字は変遷して行ったとしても、どこかでそれはその文字が生まれた背景を持って存在し続ける。

言語や文字はある種の限定であり「縛り」だが、やがてはそれが「形無きもの」への広がりへと繋がるものでもある。

[本文は2013年2月10日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]