2023/03/08 18:59

日本が第二次世界大戦に参戦して行った背景を、軍部の台頭とする見識は決して間違ってはいないが、事の本質はもっと基本的な部分に有る。

日露戦争の勝利で世界列強の1国として認められた日本、特にこれによって認識が深まったのは軍隊の存在だったが、この時点の日本軍は創設されてから日が浅く、結果として政府、内閣と軍部は重複していた形態を持っていた。

政治と軍隊が一体化していながら、政治に重点が有ったのである。

そしてここから列強国を維持する要件として「力」、軍の影響力を重く見た日本政府は軍を増強して行く。

その過程で組織として政府や内閣と分離して行った日本軍は、過去政治的な融合状態に有った経緯から、その融合状態を維持したように錯誤しながら組織的には政治から分離した状態になり、結果として政治的にアマチュアになって行きながら、このアマチュアリズムが政治のプロフェッショナルである政府を超えて「何でも出来る」と思ってしまう状態を生じせしめた。

やがて政府が作った軍隊が政府や議会、その上に存在した天皇までも「輔弼」と言う形で越権し始めて行ったのである。
だがこうした傾向、軍が何でも出来ると言う意識は常に右肩上がりで強まったかと言えばそうでもない。
明治時代「硯友社」の小説家として活躍した「広津柳浪」の子供で、やはり小説家、評論家として活躍した「広津和郎」(ひろつ・かずお・1891年~1968年)が「日本の歴史」第12巻の後書きで、大正時代には日本軍の中でも限界を考える者が多く存在していた事を書き記している。

ここに来て欧米との関係から軍は誰のものか、何の為に存在するかと言う事が軍内部でも考えられ始めて来た事を意味し、同じく広津和郎の筆を借りるなら、彼が予備召集で軍に入隊した時、大正5年の事だが、彼の上官である大尉は壕(ごう・地面に深い溝を掘ったもの)を掘る訓練をしていた広津等新米兵にその理由を訪ねているが、広津等は学校で学んだ通り、それは「砲を敵の攻撃から守る為です」と答え、このような一辺倒の回答に上官である大尉は以下のように諭したと書いている。

「良いか、砲は機械だ」
「そんなものはまた作ろうと思えばどれだけでも作れる」
「しかし貴様等の命は一度失えば返ってこない」
「この壕は貴様等の命を守る為に掘るんだ」

広津は上官のこの言葉に自分が恥ずかしくなったと書いている。

明治期の日本軍の軍人はとても謙虚で、民衆の前でも決して威張ってはいなかった。
大正5年の若い下士官でもこうした意識の者は多かった。
しかしこれを変えて行ったものは何か、その答えが広津と上官の問答の中に隠されている。

広津は学校で壕を掘るのは「砲を守る為」と教えられているのに対し、日本軍の下級将校は「貴様等の命を守る為」と言っているのであり、ここに日本軍の崇高な意識を変えて行ったものの正体が「教育」に有った事が如実に現れている。

すなわち「軍」と言うある種崇高な意識が求められる中に、一般社会の俗的物質至上主義が学校教育と言う形で進入し、最終的にはそうした教育が一巡した昭和の時代に入って、学校教育の思想が広津等の上官達が持っていた意識を下からねじ曲げて行ったのである。

日本軍が思想的に独立したもので有ったなら、或いは明治以降の教育の方向が違っていたなら、日本が第二次世界大戦に参戦する事態は避けられないにしても、もう少し違った形になっていた可能性はある。

そして大正期には一時的に軍至上思想が衰退していたにも拘らず、それを戦争に向けて推し進めて行った日本の教育とは、その背景を考えるなら、「内務省」と言う存在は決して責任を免れ得べきものではない。

GHQに拠って解体されるまで戦前日本を影で操っていた「内務省」と言う組織は、大久保利通に拠って創設されたものだが、現在の各省庁を人事や予算で縛る事の出来る官僚機構の中央組織と言う事が出来る。

大久保は海外を視察したおり、政権と言うものが発足した直後の政策に措いて、イギリスやフランスなどの完成された政治機構より、ロシアやドイツと言った混乱期を治める方式の組織の必要性を考え、それでどちらかと言えば非常事態に措ける機構であるロシアやドイツを模倣した「内務省」を創設したが、非常時に措ける内務省的活動は基本的に「国家監視」である。

しかも警察、教育、建設、各県の知事の任命に至るまで組織的に統括する国内政務の最高機関と言う事ができる。

これら内務省的組織は、最終的には各農村の個人の単位まで監視する機構、例えば特別高等警察などを構成するが、こうした組織が握っていた教育と言うものは、政府を劣化した一般大衆が支える形となり、この教育方針が政府攻撃を抑制する為に欧米からの攻撃被害意識を蔓延させる結果となり、最後はこうした教育による誤った国民意識を増長させるしか国民の不満を抑えられなくなる。

日本を戦争に導いて行ったものの一因は軍隊ではなく、内務省と言う影の日本だったのである。
それゆえGHQは占領政策で内務省の解体を計り、戦後内務省と言う組織は無くなったものの、政府内部にはこの復活を画策する議案が戦後70年の間に、ほぼ10年に一度の割合で出されては不成立していると言う現実がある。

また戦後、自治省、文部科学省、建設省、警察機構と言う形で分離しているものの、それまで各都道府県主体だった警察機構は既に中央集権組織に変更され、国家公安員会の独立性も希薄な状態で、自治省は学校運営に各行政区の予算を通して発言力を持っていたが、これらは総務省と言う形で建設、警察機構を除いて統合されている。

つまり戦前の内務省に少しずつ近付きつつ有ると言う事であり、2008年自民党の国家戦略会議などはまさに「内務省」復活を提言している現実をどう評価すべきか・・・。

現在分離している各省庁を政府が支配できる体制である内務省、教育を通してこの国を歪め、国民を戦争に引き込んだ内務省の復活を堂々と提言しながら、戦後70年日本は世界平和に貢献し、これからも世界平和の為に・・・と言う言葉は二枚舌にしか聞こえない。

内務省の復活は安保問題以上に重大な問題なのだが、実は静かなところで何度も復活が試みられている。
我々は安保問題などと言うメジャーな問題に気を取られて片方で静かに進む戦争への足音を忘れてはならない。

今の日本は「貴様等の命の為に壕を掘れ」よりも「砲を守る為に壕を掘れ」に傾き始めている・・・。


[本文は2015年8月16日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]