2023/03/08 19:02

人類の歴史に鑑みるなら「平和」はその対極に有る状態に対する概念でしかないが、「戦争」は人類史に常に刻まれ続けてきた現実、言うならば人類の営みの一つと言う事が出来る。

また紛争解決の手段としてこれほど単純明快にして決定的、かつ絶対的な手段は無く、その意味では人類が持つもっとも基本的な調整機能と言う事も出来る。

元々生物は個体が完成形で有る為、個体同志は一致できない。
例えば男女でも恋愛等の概念で一致したように思えても、それは互いの生殖活動に措ける合致点であり、厳密に言えば性行為そのものが男女では異なった概念の出会いに拠って為される。

それゆえ生物は自身以外は全て「他」なのであり、家族で有ってもそれは社会的概念で有り、人間社会や生物学的社会に措ける一つの形でしかない為、自己と他の関係に措ける基本形態、闘争からは常に逃れられない。
生物、人類は平和を願いながら、その実決して戦争を棄てる事は出来ない。

我々はこうして生活していると平和に暮らしているように思えるが、現実は毎日闘争に明け暮れている。
主婦がキャベツの値段を巡って八百屋の主に値引きを要求するのも闘争の一種なら、子供の進学の件で始まる夫婦喧嘩、自治会長の座を巡る派閥争いや、政治権力の闘争、その他我々の極々一般的な生活の中は意見の食い違いで満たされ、この集積が国家なのである。

そしてこうした意見の相違をどう解決するかと言う手段に、ルールを決めた中での話し合い、或いは金銭的解決方法、更には統一ルールに権威を持たせた法的解決などが有るが、これらはどれも基本的にぶつかる自己と他をどう調整するかと言う事なのであり、この一番基礎的な解決方法が暴力と言うものなのである。

集団に措ける生物の優位性は、生物の基本構造が同じなら劣性にこれを求め易い。
集団の中で一番強い者が決定していく過程では先に自身を含めた劣性が確定して行かないと、強者の確定が為されない。
この意味に措いては生物、人類も常に自分より劣性になる存在を探しながら生きている事になり、昨今騒がれるいじめ問題などは人間の基礎的な行動でもある。

更にこうした集団が特定の空間内に存在する場合、繁栄すれば必ず訪れるのが「飽和状態」であり、ここではまず食料などの物資から始まり精神世界的な分野でも飽和に拠って周辺部分から枯渇が発生し同属争いが始まり、こうしたものが外へ向かえば他種族間の抗争になり、ここでどう言う解決方法、妥協が為されるかと言う方法論の一つが暴力、つまり戦争と言う形なのである。

それゆえ我々は経済的な抗争、言語に拠るやり取り、或いは法の裁きを平和なものと概念し易いが、物事の決定方式の違いなので有って、本質的平和ではない。
闘争や抗争は常に渦巻き、その解決方法が武力ではなかったと言うだけの事なのであり、互いの信頼関係や約束などは感情が激高すれば簡単に壊れ、いつでも基本的手段である武力に拠る解決法、戦争に陥る可能性の中に存在している。

平和と言う概念をかろうじて戦争の無い期間とするなら、現在平和の中に在る者は正確には平和を概念出来ない。
平和は平和な状態に在る者に拠って概念を歪められ、平和時に概念される平和と、その対極状態に在る平和は前提条件が異なる為、似ているように見えて逆回りの関係に在る。

世界の多くの国では唯道を歩いていても殺され、女は体を売って、男は厳しい労働で僅かな金を得て暮らしている、それしか生きる術が無いような地域が多く存在し、先進国と言われる国の中でもこれは存在する現実を見るなら、平和は現在そう言う事が言える環境の者の幻想と言っても過言ではない。

平和時に措ける平和の概念の多くはそれを担保するものを持たない。
平和は概念であり、状態をどう評価しているかと言う考え方であり、これと実際に発生する自己と他の関係、意見の食い違いと言う現実は親和性が無い。

平和とは現在その状態に在る者にしか与する事が出来ず、同じ意味では「人権」、人としての最低の権利もそれが現状で存在する地域でしか主張が出来ない性質のものでしかない。
今生きる事に必至な者は食べ物で有ったり金銭、或いは薬、場合によっては命そのものかも知れず、この状態に在る者には平和も人権も全く現実には影響を及ぼせない。

今戦闘の最中に在る地域に措ける平和とは、戦争が無い状態、変革を概念し、平和時に措ける平和とは現状の維持である。
そして現状の維持に対する変革は必ず対立となる。
つまり平和時に措ける平和を望む主張は基本的な対立であり、この場合の平和は戦争に向かう平和と言うべきかも知れない。

我々は目が醒めた瞬間から自己と他の関係で意見の相違を持ち、本質的には常に暴力以外の方法で戦争をしている。
そこに暴力が使われていないだけの事で有り、純粋な平和を求めるなら生きる事を辞めるしかない。

戦争は生物、人類に組み込まれているバイオプログラムであり、「業」「宿命」とも言うべきものであり、これを制御しているのも社会なら暴走させるのも社会であり、制御は薄紙の如く危うい。

生物は絶対平和には生きられない。
戦争、闘争、理不尽こそが常時であり、平和は暗闇に僅かに漏れる蝋燭の灯火である。
この事を理解していないと、平和はどこか遠くに在る理想郷を根拠に現実と対立、つまり更なる大きな戦争の旗印にしかならない・・・。


[本文は2015年9発2日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]